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作り手のハートの入ったおいしいものをいつも、求めています。
玄人の技術には感心しますが
半人前の努力も魅力の一つと思っています。

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2009年6月

2009年6月30日 (火)

2016年・オリンピック招致に向けた東京を見て、1988年ソウルオリンピックもね-7

サッカーの試合結果は韓国の勝利に終わり、今夜は街に繰り出せそうだ。

しかし、日本のサッカーはこの時期を経て、瞬く間に技術を上げ、Jリーグの

影響もかなりあって、来年もワールドカップ出場が決まっている。もちろ

ん、日韓共同開催という大役も経験しているのだから、素晴らしいのひとこ

とに尽きる。釜山の目抜き通りは人で溢れて、韓国の勝利を祝うがごとく、

人の熱気が伝わってくる。街の辻には「カービン銃」を持った兵隊が仁王立

ちになっていて、「さわぎ起こしたら、ぶっ放す!」と言っているようにも

思える。街を見ながら、韓国・釜山の協力工場を見学し、まだまだ、自国の

生産したものとは製品の優劣が開きすぎていることなど、課題が満載で全く

同じものが出来るのか疑うしかなかった。やはり、使用している水・塩・添

加物から間違っているのではないか?常識の観点から考える必要があった。

その夜は確か「山庭農園」という焼き肉店に連れて行ってもらった。まるで

東京目白のTのような築山と東屋が点在する高級店、バリバリの香りがする店

だ。(以下次号)

2009年6月29日 (月)

2016年・オリンピック招致に向けた東京を見て、1988年ソウルオリンピックもね-6

韓国、釜山・金海空港に降りたったのは1987年、どこの空港でもそれな

りの香りがするものだが、金海空港は明らかに、キムチの香りがした。むし

ろ、好きな香りだが、キムチが釜山のどこの飲食店でも無料で出されること

はびっくりした。そして、なんの因果か韓国対日本のワールドカップ出場を

かけた試合が行われていたし、空港から市内に行くバスの中でも運転手がラ

ジオを熱心に聞いていて、歓声しかわからないが、きっと、サッカーの試合

状況を聞いていたに違いない。もし、サッカーで日本が勝つことがあった

ら、盛り場では暴動が起きると釜山駐留の社員が言う。初めての韓国・釜山

において、ホテルに缶詰めはごめんしたい気分、せっかく、本場の「焼き

肉」を食べに来たのだから。今回は観光ではなく、韓国の水産会社に委託し

ていた製品の検品と工場視察が一番の目的だ。たった、一泊とはいえ、本場

の焼き肉には心、躍らせていた。ちなみに、成田空港に降り立つ外国人は空

港の香りを醤油の匂いがすると聞いたことがある。(以下次号)

2009年6月28日 (日)

2016年・オリンピック招致に向けた東京を見て、1988年ソウルオリンピックもね-5

オリンピックや万博のような国際級のビックイベントで国が変わるのはイン

フラ整備だけではない。ビジネスチャンスも生まれるし、雇用も増えるので

国民の所得も上がっていく。所得税を取る国は税収が増えて、イベント終了

後に冷え込んでいく国の経済への指針が生まれてくる。イベント成功による

国力の誇示は貿易など優位に進めることもできるだろうが、本当のイベント

の効果はどうだったのか検証すべきかもしれない。1988年に韓国ソウル

において「ソウルオリンピック」が開かれたがその足取りはどうだったの

か、オリンピックの前にはアジア大会を経験し、サッカーのワールドカップ

出場も決めて、徐々にオリンピックへの準備を始めていたのだ。そして、ソ

ウルオリンピックは大成功に終わり、20年過ぎた2009年、今日のソウ

ルはウォン安が言われているものの、日本のお家芸であった半導体や家電、

自動車などの世界進出は揺るぎない韓国の国力アップの要因である。198

8年前後、ソウルから遠く離れた釜山での食はどうだったか?思いだすこと

にした。(以下次号)

2016年・オリンピック招致に向けた東京を見て、1988年ソウルオリンピックもね-4

そのような成功を収めているRの不動の事業として旅客機の機内食があ

った。狭い飛行機の厨房?で安全でおいしくて、旅の思い出にもなる重要な

機内食で日本での追随を許さないのもセントラルキッチンだけでなく、幾多

のノウハウを駆使して、キャビンアテンドさんの負担を出来るだけ軽くす

る、日々の気遣いもRの大事な事業の現れであった。そんなRに舞い込んだの

が「大阪万博」のレストランの運営だ。社長のE氏も悩んだあげく、Rのサー

ビスとホスピタリティーを兼ね備えたレストラン運営は社運を賭けるもので

もあったし、日本のレストランとして果たしていく重要な役割がそこにあっ

た。大阪で短期間にセントラルキッチンを作ることは費用、コストの面から

あえてせず、すべて、自社の工場から福岡空港を経て大阪空港まで素材を空

輸し、万博会場まで運んだのである。当時はコストの高い空輸に挑戦し、時

間の短縮と自社のノウハウの詰まったセントラルキッチンで素材を作り上げ

ることにより熟練の調理師たちがより、納得できるものを作り出せた結果な

のである。そのRのレストランに感動したY氏が東京の郊外、ひばりが丘にそ

の後、Rと日本のファミレスの勢力を2分する「S」がオープンしたのは有名

な話である。(以下次号)

2009年6月27日 (土)

2016年・オリンピック招致に向けた東京を見て、1988年ソウルオリンピックもね-3

日本における洋食の加速度を加えたのは「ファミリーレストラン」の登場に

よると言って過言ではない。いわゆる、収入における中間層の(中流意識)

の来店動悸を起こさせ、新ファミリーを取り込んでいったのである。その手

本となったのが「九州・博多のR」であり、その事業には「セントラルキッチ

ン」の導入など、今までの日本の外食の概念を覆す、大きな主軸を武器に、

新しい日本の外食を動かしていった。その大事件と言えるのが「大阪万博」

もそのひとつだ。1972年にRはKというレストランのチェーン化に成功し

ており、その基本の軸となったのはアメリカ軍のキャンプの食堂だ。その食

堂ですべての仕込みをするのではなく、冷凍された素材に手を加えれば、ア

メリカ本土のキャンプと同じアラカルトが出来上がる。今までのような何十

年も掛けて修業したベテランシェフに頼る経営ではなく、色んな素材をレシ

ピ通りに手を加えていけば、そこそこのアラカルトが出来上がり、清潔で心

の落ち着ける空間で折り目正しい接客をされて、最後の評価90点を出す顧

客で、Rのレストランは人気店となったのである。(以下次号)

2009年6月26日 (金)

2016年・オリンピック招致に向けた東京を見て、1988年ソウルオリンピックもね-2

その頃、日本で誇れる和食は歴史のある料亭や寿司、日本そばなどで、あえ

て、老舗の洋食屋さん、ホテルのレストランはこの際、省いたとして今のよ

うに多種多様化した和食の居酒屋チェーンもそれほど、連立していなかった

し、あとは個人の経営する小さい規模の店があるくらいだ。ここで言いたい

のはオリンピックを見に来る世界からのお客さんはもちろんのこと、映像を

撮ったり、報道する面々、また、選手が簡単に行ける和食店はそれほどなか

ったと思う。それではとばかりに、宗教上、食べられない食材も考慮して、

自由に選ぶことが出来る選手村の「欧米式カフェテリア」が選手、スタッフ

の空腹を満たし、食の安全を叶えたのだと思う。また、これを機に、高度成

長期を反映して、日本でも郊外レストランやバイキング形式(食べ放題)の

中華料理などがホテルのラウンジで行われるなど、極一部の人々の食文化が

少しづつ、津々浦々にも伝わって行ったのである。そして、日本における洋

食の広まりは1975年の大阪万国博覧会で日本の洋食の「雄」が活躍する

ことにより加速度を増すのである。(以下次号)

2009年6月25日 (木)

2016年・オリンピック招致に向けた東京を見て、1988年ソウルオリンピックもね!

 先日、ニュースを見ていたら石原都知事がオリンピック招致為、普段見な

いような「厳しい顔」をしていたのが印象的だ。新銀行東京の恐ろしい負債

をなんとかなるくらいな顔と比べたら差があリ過ぎる。世界有数の国際都

市、東京の強気で知られる知事でありながらも、自分に負えない力が存在す

るというものに初めてぶつかった、そんな戸惑いだろうか。私自身は日本に

生まれて冬季を合わせれば3回、日本でのオリンピックを経験していることに

なる。1965年の東京オリンピックはまだ、幼くて、よく覚えていないが工場

の人たちが仕事の手を休めてというよりも、ほとんど、仕事をしないで日本

人が出る試合にのめり込んでいたようだ。確か、アジアで初めてオリンピッ

クを開催した国であり、太平洋戦争のあと、復興を示す絶好の機会と高速道

路ができたり、新幹線も整備されたのはあまりにも有名だ。それに伴い、世

界中の人々がやってくるのだから、日本の食文化を広めることも重要な役割

であっただろう。しかし、世界からやってきたのはカフェテリアで何でも自

由に好きなものが食べられるという日本では経験のない新しい食文化の発想

だ。(以下次号)

2009年6月24日 (水)

1994年 もつ鍋から鍋処への転換 いつか再ブームが!!来る? 119

そして、1994年。銀座の「G」は絶好調のうちにフランチャイズ店を一

気に増やしたものの、心無い週刊誌の一面で「もつ鍋は痛風になる!?」の

見出しや中吊り広告で世の男性の肝をそれこそ一気に冷やして、もつ鍋ブー

ムは終焉を迎えたのである。しかし、築地のもつ鍋店は120席を広いと感

じたり、冬には狭いと感じたりして、多くの企画をやり続けて、2009年

も現在に至っている。第二次とも言える「もつ鍋ブーム」を作ったのはいわ

ゆる「タレントさん」の打ち上げに使われることの多い焼き肉店の隅に麻布

や恵比寿の「真剣に取り組んだもつ鍋優良店」が存在し、品質にこだわった

心意気が、また各地にもつ鍋の明かりを灯していったのである。また、自分

の店である「築地鯔背屋」でも築地の店を立ち上げたノウハウを生かして、

もつ鍋の文化を継承している。(以下次号・今回の1994年もつ鍋からは

次回より、新しい局面を迎えます)

2009年6月22日 (月)

1994年 もつ鍋から鍋処への転換 いつか再ブームが!!来る? 118

博多の人情かあさんと単身赴任のおとうさんとのキャッチボールにより「博

多の牛もつ鍋」が東京の奥さんと子供たちに振舞われる瞬間は心、温まる映

像だった。当時はまだ、今ほど携帯電話が当たり前でなかったのでその牛も

つ鍋のレシピは一般電話の口伝えで行われ、「ああ、そうだっけか?ああ、

ありがとう、うん、うん、わかったやってみる」そんな会話が交わされ、牛

もつ鍋の出来上がり。妻子がおいしいと笑顔になったところで再び、博多の

人情かあさんに電話して涙ながらに「ありがとう!!」を言う姿に日本人の

20%が見た位の視聴率だった時点にて「牛もつ鍋」は食べたい鍋一番にな

ったのだ。前にも述べた通り、その頃、銀座8丁目にジャズを流しながら、

洋風のインテリアでブームの一端を成し得ていたもつ鍋「G」により倍以上の

予約、来店客が押し寄せ、もつ鍋ブームが到来したのである。(以下次号)

2009年6月21日 (日)

1994年 もつ鍋から鍋処への転換 いつか再ブームが!!来る? 117

ヒット商品を作る条件はまず、ターゲットを絞り揉むこと、健康になる可能

性があること、その商品によって人が語り合えること等、色々な偶然、ま

た、作られた話題性に乗れることにある。牛もつ鍋がヒットした理由の第一

と思われるのは「正肉よりカロリーが低いこと、温野菜がたくさん食べられ

ること」などが考えられる。博多の居酒屋やもつ鍋専門店など、ごく小さい

地域で根ざしていた「牛もつ鍋」はいわゆる、単身赴任のおとうさんの栄養

源として、その「牛もつ鍋」を平らげるまでの過程において、博多の人情が

絡んでいく。「おつかれさん!今日ももつ鍋でよかと!」その声が聞きたく

て、単身赴任のおとうさんは夕食を兼ねたお疲れをまずは、一杯飲みほし、

次に夕刊に目を通しながら、お薦めの肴をあてに、店の主人やおかみさん、

あんちゃんと言葉を交わしながら「牛もつ鍋」へ移行していくのであった。

そして、東京に帰る時、家族へのお土産として「牛もつ鍋」を持っていくと

ころでテレビのドキュメンタリーは始まった。(以下次号)

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