プロフィール

フォトアルバム
スタッフ

作り手のハートの入ったおいしいものをいつも、求めています。
玄人の技術には感心しますが
半人前の努力も魅力の一つと思っています。

最近のコメント

最近のトラックバック

もっとお店のブログを見る

« 2009年1月 | メイン | 2009年3月 »

2009年2月

2009年2月28日 (土)

1994年 もつ鍋から鍋処への転換 いつか再ブームが!!来る? 18

黒豚を仕入れすることで始めた「黒豚しゃぶしゃぶ」をまず、売らなくては

ならない。90分食べ放題・2980円のポップを作り、子豚が笑ってい

る、かわいらしさを前面に打ち出し、ランチに訪れている180人をターゲ

ットにチラシも作った。お客様から「おいしいの?」と聞かれると「絶対、

おいしいです」と答え、もちろん、従業員さんにも試食してもらっているの

で「おいしいですよ!」という返答が自然に出来た。黒豚しゃぶしゃぶの食

べ方は三通り「ポン酢・ごまだれ(アーモンド風味)・かつをだし」でごま

だれに人気が集中し、当初ロースと三枚肉を混ぜて出していたが三枚肉の方

が好評を得た。でも、やっぱり、常連のお客様は「牛もつ鍋」を目当てで来

店される為にフレッシュの牛もつを確保しなければならなかった。そして、

闇鍋として「かくれもつ鍋」をある限ったお客様に提供するために、店では

もつをカットせず、メーカー側でカット、真空、急速冷凍で製品化できない

かと打診することにした。相変わらず、「O-157」は猛威を振るい、死者まで

出る騒ぎになっていた。(以下次号)

1994年 もつ鍋から鍋処への転換 いつか再ブームが!!来る? 17

1996年6月、関西中心に食中毒が小さな記事で報道されていて、梅雨時によ

くある食品事故と思っていた厚生省から聞きなれない「O-157」によるものと

報道された。食肉を生、または半生の状態で食べると発症するとひとつの所

だけが当初、クローズアップされ、焼き肉店が病気の的にされた。それに伴

い、いわゆる「臓器類・もつ」にも影響が及んで来て、九州の本社からもつ

の扱いをやめるように指示があった。三月から発売した「両国ちゃんこ・魚

河岸鍋」も順調にコースに組み入れられていたが、もつ鍋がまだまだ、売れ

筋で売上を作っているアイテムだ。どうしたらいいかと悩むことなく、会社

の命令に逆らうことはできない。まず、考えたのは「もつ」を売ってくれて

いるメーカーとの関係、「牛の内臓のフレッシュ」を扱っているメーカーは

全国的に一社独占といってもよく、もし、取引がなくなり、このさわぎが治

まった時点で他店にこのフレッシュのもつが移行して売られていることも考

えられ、次に再開するときに取引してくれるとは限らない。この危機を一緒

に乗り切ることを考え、とりあえずはこの会社で扱っている「鶏肉・黒豚」

を仕入れて、それを新しい鍋に使用することにより、この仕入先との売上を

維持しようと考えた。(以下次号)

2009年2月27日 (金)

1994年 もつ鍋から鍋処への転換 いつか再ブームが!!来る? 16

1996年の年明けもなんとか、販促が形になり、1月も昨年を上回る売上を作

ることが出来た。どっちにしても利益は最優先ながら、売上を作っていけ

ば、自ずから利益が付いてくると生意気なことをいってしまったがなかな

か、利益が付いてこない。原材料費や人件費の再考をして、すきのない営業

をしていかなければと日々の営業にも熱が入る。やはり、足を引っ張ってい

るのは昼間の人件費でアイテム数がセットと単品で30品あるので厨房3

人、デシュップ1名、ホール1名、座敷2名、レジ専用で1名必要だった。

なんとか、2名減らすことが出来ないか考えて、メインのうどんを冷凍うど

んに変えて朝の仕込みを減らし、三名の厨房を2,5人でホールと厨房を1名

が兼任し、慣れてきた時点でレジ専用のアルバイトも本部に返すつもりだ。

(オープン当初から本部の事務員を借りていた)そうした努力が実を結ぶに

は一か月半掛かり、その時点でメニューを変更して出数の少ないカットして

いった。毎日、昼はめちゃくちゃ忙しく、夜は暖かくなるにつれて、だんだ

ん、暇になってきたが6月に大変な事件が日本列島に押し寄せてきた。

(以下次号)

2009年2月25日 (水)

1994年 もつ鍋から鍋処への転換 いつか再ブームが!!来る? 15

1995年はサリン事件の影響を受けながらも3か月前より販促を想定して、な

んとか、秋の収穫祭までこぎつけた。そのまま、10月に比較的多い、歓送

迎会を取るため「両国ちゃんこ・魚河岸鍋」をメインとしたコースを女性誌

に掲載して予約を取り込んでいった。会社の宴席に女性社員を無理に同席さ

せるとセクハラになると認識され始めたこともあってか、女性社員に幹事を

任せて、出席を促すことも行われたようだ。その頃、女性に受ける店がもて

はやされ、今では特にカテゴリーとして分かれていないが「レストランバ

ー」や間接照明を使った暗めのダイニングが流行した。ほとんどがフレンチ

やイタリアンと気取った店が多く、やはり、宴席には和室、個室でなければ

という風潮が追い風になって、築地の店は前年の売上を120%と好調でタ

ーゲットの絞り込みがうまくいったようだ。しかも、女性同士が出せる40

00円平均の予算に対して「上司と行きたい店」と大見出しをして、500

0円を超える客単価にも挑戦し、11月は120%とはいかなかったもの

の、12月は席だけ予約を取らなかった為に予約の95%が飲み放題を含ん

だ5000円のコースとなった。(以下次号へ)

1994年 もつ鍋から鍋処への転換 いつか再ブームが!!来る? 14

3月20日から売り出した「両国ちゃんこ・魚河岸鍋」は単品での出数はな

く、やはり、コースに組み込むことにした。そして、店名も「もつ鍋」を外

して、「鍋処」と冠を改めた。それに伴い、新コースのパターンを先附け・

前菜三点・刺身・サラダ・鍋・〆の食事・香の物・デザートを3500円で

売り出し、歓送迎会の予約を取ることが出来た。これから考えることは5月

過ぎの連休明けと7月から8月末までの売上をどう作っていくかだ。5月明

けからはかつをの動向を見て、かつを祭りをロングランで行うこととし、夏

の間はもっとシンプルなコースにして、やはり、お客様を引っ張ることので

きる「2500円のコース」と飲み放題で乗り切ることにした。とにかく、

8月末より行う「秋の収穫祭」まではランチのお客様に遡及し、少しでも気

を引いてご来店して頂き、売上を確保して、閉店に追い込まれないために、

これからが本当の辛抱の始まりだった。(以下次号)

2009年2月23日 (月)

1994年 もつ鍋から鍋処への転換 いつか再ブームが!!来る? 13

あの地下鉄の事件から日比谷線には乗れなくなり、遠回りになるがJRで通う

か、会社では禁止されているオートバイで通うことになった。事件が明るみ

になると聞きたくないことばかりで、日比谷線で通う今でも築地駅の階段を

登るときは息を止めて一気に駆け上がることにしている。この階段で亡くな

った人々にどんなお悔やみを言っていいか、自分なりに解決していない。サ

リンを浴びたろうコートや上下のスーツもビニール袋に入れてその日のうち

にゴミ箱行きとなり、帰りは会社のユニフォームで帰った。テレビのニュー

スではホントにサリンガスなのかが議論され、まだ、教団の名は伏せられて

いたし、松本のサリン事件との関連を断定できないでいた。その当時の築地

の店には警察の方の利用がかなりあったが急にキャンセルになるなど、事件

の重大さが伺われる、増して警視総監が狙撃された時は即座にキャンセルの

電話があり、理由は明日の朝刊を見ればわかると電話を切られた。その人生

で起こった事件の日がまた、近づいてくる、この3年間、3月20日に照準

を合わせて上海に行くことにしていたが今年は自分の店がテレビに放映され

た影響で店が忙しくて上海へ逃げられそうもない。

(以下次号)

2009年2月22日 (日)

1994年 もつ鍋から鍋処への転換 いつか再ブームが!!来る? 12

あとから考えてみれば、最初に乗ろうとした車両は前から三番目の後ろか4

両目の前付近、あの時、サリンガスを持った、医師のH氏が乗り込んだ車両だ

ったのだろう、一度、傘でそのビニール袋を突き刺して、小伝馬町駅に降ろ

したのは事件の解明されたニュースで分かったことだ。運命とはわからない

もので、もし、本を前日に買わなければ、一番ひどい被害にあった車両に居

合わせただろう。築地の駅では何も知らない駅員さんが倒れた乗客を救護し

て災害に巻き込まれ、殉職した方がいた。結局、サリンガスの被害にあわれ

て亡くなった人の数は今でも把握していない。そのニュースが流れる度に私

は耳を覆ってしまうからだ。その教団の名前を聞くたび、嗚咽が走り、胸が

どきどきしてしまう、その教団の教祖の顔を見るたび、吐き気が今でもして

しまう。生かさせてもらったと思い、亡くなったかたの分まで頑張ろうとす

る気持とつらいことがあるとなぜ、神様は自分を生かしてくれたのか考えて

しまう時もある。松本のサリンの事件にしてもなんの前触れもなく、死がや

ってきたしまった方々の辛さと無念さを思うとやりきれない気持ちで一杯で

す。被害にあわれた方のご冥福となんとか難を克服された方のご健康ををお

祈りします。(以下次号)

1994年 もつ鍋から鍋処への転換 いつか再ブームが!!来る? 11

北千住駅の日比谷線ホームに着いたのは大体、午前7時20分頃で整列乗車

の為に並んでいると次の始発があと5分くらいだったので、昨日買った「伊

集院静」さんの単行本を読もうと思い、最初に並んだ始発をやめて、次の始

発に乗ることにした。幸い座席に着くことが出来、新しい本に入り込み、あ

っと言う間に小伝馬町へ着いた。小伝馬町から乗ったお客さんが気分がわる

いらしく、急にばたりと前かがみに倒れて、そのまま、茅場町駅に到着。駅

員さんを前の席の親切そうな人が呼びに行って介抱してそのまま降りた。そ

のとなりの車両の人も何人かがや、前のめりに倒れて「今日は病人の多い日

だ」と思った。しかし、地下鉄は発車せず、車掌も「前の列車に急病人がい

るようで発車できない」と繰り返すだけ、では自分の目の前で倒れている人

たちは、自問自答し地下鉄を茅場町駅で降りて、新大橋通りを築地に向か

って走った。途中、八丁掘駅から担架で運ばれている人がいて、「ああ、こ

の人が病人かと納得したが、口を開けたままで息をしてないのが分かり、全

身鳥肌が立った。まさかあの「サリンガス中毒」とは知る由もなく、築地に

着いてみるとたくさんの救急車が止まっていて、あの大きな新大橋通りが通

行止めにされていた。「なんだろう」と思いながらも通り過ぎて店に着くと

一階の珍味卸問屋の専務が「毒ガスらしい」というので初めてことの重大さ

に気づいた。(以下次号)

2009年2月21日 (土)

1994年 もつ鍋から鍋処への転換 いつか再ブームが!!来る? 10

1994年は盛況に終わり、1995年を迎え、新しい気持ちで仕事に立ち

向かう。とりあえずは忘年会需要と新年会で乗り切り、歓送迎会シーズンに

は「ちゃんこ鍋」を発売したかった。両国の店もなんとか、冬を乗り切って

いたし、両国の店こそ、ちゃんこ鍋をやるのにはふさわしい立地にあった。

テーマは両店の得意とするところを考慮して、「築地は魚河岸鍋・両国は両

国ちゃんこ」とベタなネーミングで双方で発売することになり、味付けをど

うするかが次のテーマだ。九州に縁のある店として「冬の九州場所」をイメ

ージしてだしは炙ったいりこと昆布と最後に鰹節の少し、硬いものを入れて

何回もだしの調合をして2月の終わりには味は決まった。次は発売時期で切

りのいいところで1995年3月20日に決定した。それまでに店内に張る

ポップの手配や新メニューの作成などに追われて、いよいよ、3月20日を

迎え、いつもより2時間も早く家を出て、最寄の北千住駅より日比谷線にて

築地へと向かった。これが大変な事件に巻き込まれるとは知るよしもなかっ

た。(以下次号)

2009年2月20日 (金)

1994年 もつ鍋から鍋処への転換 いつか再ブームが!!来る? 9

10月に入ると、2500円の料理のコースと飲み放題で店は8割の入りで

なんとか、予算には達成しそうだ。しかし、忘年会の予約を取るにはもう一

歩踏み出さないと客単価を上げれない。夏の弱い分を寒いシーズンで取り戻

さないと家賃を棚上げにして考えても、保証金を消化してしまえば、閉店の

可能性があるのは確かだ。現実にあるのは厨房の非力さで鍋以外のメニュー

は相変わらず、見劣りするもので私自身、寿司店を経験しているのでもっと

築地らしい刺身を提供出来たらと思い、親会社の関係から築地で三番目の規

模を誇る、まぐろと鮮魚を扱う仲卸を紹介してもらった。その時の担当者が

私の運命を変えることになるN氏との出会いっだった。お互いに同じ年齢とい

うこともあり、すぐに打ち解けてこれからの自分たちの夢を語り合う仲にな

り、13年後には新たな展開を迎えることになる人物だ。N氏も親身に仕入れ

をさせてくれて、いろいろな可能性を考えてくれ、たらいに盛りつけるイン

パクトのある刺身の盛り合わせを考案してくれた。もつ鍋で実績のあった媒

体に写真撮りをして掲載すると料理3500円のコース中心に忘年会の予約

が入って来て、魚をグランドメニューで扱っていくことへ一歩、近づくこと

が出きた。(以下次号)

築地 いなせや のサービス一覧

シェフ紹介:
シェフレシピ:
BEST OF MENU
築地 いなせや