プロフィール

フォトアルバム
スタッフ

作り手のハートの入ったおいしいものをいつも、求めています。
玄人の技術には感心しますが
半人前の努力も魅力の一つと思っています。

最近のコメント

最近のトラックバック

もっとお店のブログを見る

« 2008年12月 | メイン | 2009年2月 »

2009年1月

2009年1月31日 (土)

1992年ー1993年 騒然のもつ鍋ブームはどうして終わったのか 12

もつ鍋屋を始めた時のクレームで一番多かったのは「もつ」が硬いとのこ

と。元々、関東でもつを食べる方法はいわゆる、「もつ煮込み」で一回、水

から炊いた後、湯こぼしをして、もつを洗い、再度、ごぼう、こんにゃくを

加えて味噌で煮込み、もつを柔らかくして食べたからだと思う。専門店をき

どり、煮込まない、もつが硬いのが「もつ鍋」と説明していたので明らかに

硬いものがダメという顧客層はリピーターにならなかった。次に多かったク

レームは支配人の前職がコピー機最大手の会社に在籍していた為、在籍して

いた会社の社員を顧客に出来るとの話であった。しかし、いざ、蓋を開けて

みるとブームのおかげで連日、満席がつづきそこの社員の予約が取れなかっ

たことによる、「話と違う」というものだった。また、その話というのがそ

この社員には価格の割引をするとの口約束があとあと、支配人とマネジャー

である私の関係をもっと悪くした。ハードの部分では、店の作りを畳と中心

したため、いまでは当たり前のような掘りごたつ式の8人席が二つしかな

く、ターゲットにした30代前後の顧客には畳の生活など、すでに無縁であ

ったこと、個室20人部屋がひとつ、12名部屋がひとつといずれも大きす

ぎて、接待需要の顧客が取れなかったことだ。いずれも店側が顧客を理解、

予想できなかったことの失敗だった。(以下次号へ)

2009年1月30日 (金)

1992年ー1993年 騒然のもつ鍋ブームはどうして終わったのか 11

開店して、毎日行列が出来、忙しさはいうまでもなく、少しずつ、従業員の

多さで怠ける者と頑張る者との差があからさまに見えるようになってきた。

社員は2部制のため、とても楽なシフトで早番は11時から8時までで遅番

は14時から23時までだった。当初、支配人としっくりいかない私は早番

が多くシフトされたが、毎日の忙しさで支配人の立ち仕事に支障が出るとお

金を管理する遅番へシフトされた。また、運とはあるようで私のいないとき

ばかり、クレームや火災に見まれる事件が起こり、その度に私が支配人を責

めたものだから、関係は悪化し、ついに、外食事業部の責任者であったK氏に

支配人が私の解雇を求めてきた。理由は支配人の了解を得ずにお客様に勝手

にサービスをすることが背任行為になるということだった。私がこの店に送

り込まれた理由は親会社の関係している取引先などにサービスをしたり、親

会社が使用した時などの橋渡し役であったのでいちいち、了解を得ることで

ないと理解していた。しかし、証拠と持ってきた会計伝票は店のアルバイト

のお姉さんにもつ鍋を一人前サービスしたことを問題にしてきた。ブームに

乗った営業状態で私がいなくても店は順調に回ると判断したことも大きな理

由と云えた。(以下次号へ)

1992年ー1993年 騒然のもつ鍋ブームはどうして終わったのか 10

誰も成し得たことない大型店舗には鳴り物入りで沢山のスタッフが集まっ

た。正社員が8名、アルバイトの登録で28人。やはり、問題になったのは

正社員が多すぎたこと。まず、一番の高給は支配人、前職の給料を考慮して

月に約80万円、人材管理のマネジャーが約50万円、店の運営マネジャー

が40万円、キッチンの正社員だけで3名いたので110万円、ホールの社

員二人で60万円とアルバイトの時給が1200円、引き抜いた接客の女の

子に至っては1500円と破格であったし、当初はランチ営業もしていたの

でアルバイトの従事する時間数は1日、120時間使用した。開店当初は月

に2200万円の売り上げがあったので人件費が高いと思えばそれまでだ

が、当面、この売上が続くと甘くみたのが命取りになった。店の運営、活用

方法などで、支配人と運営マネージャーの私が対立を始めたのが開店の1か

月前で人間の多すぎることや営業のやり方など支配人に理解を求めたとこ

ろ、開店して、しばらくは支配人の考えた方法でやることを厳命された。下

関でY社長に洗脳された運営マネージャーである私は強い信念で支配人に対応

するようになり、俗にいう影の支配人になっていった。しかし、会社という

組織がそれを許すはずはなかった。(以下次号へ)

2009年1月28日 (水)

1992年ー1993年 騒然のもつ鍋ブームはどうして終わったのか 9

下関からの研修を終えて、いよいよ、築地店で取り扱うメニューの草案が出

来上がった。下関のY社長の店は焼き肉店であったのでその影響を受けつつ、

Y社長が和食の基礎を以て、焼き肉店を運営していた要素も含まれ、器の中心

は全て、有田焼を使う高級志向となった。もつ鍋に使う鍋もすべて、オーダ

ーでオリジナルの鍋を一台24000円のものととんちゃん鍋に関しては一

台40000円の鍋を使うこととなった。特にとんちゃん鍋に関しては「昭

和の名工」と謳われた名人の手によるものでY社長の尽力により、一か月で5

0枚の鍋をステンレス製打ち出しという工法で納期に間に合わせてもらっ

た。什器類だけでも800万円の投資がされた。店舗も白木を基調として青

竹で店内を囲い、店舗の改装費に2000万円、空調に1000万円が導入

され、店舗の敷金は2000万円、月々の家賃は160万円と管理費600

00円の大掛かりな店舗の開店となった。もちろん、あとあと、どうにもな

らない人件費が月に500万円掛ったのは驚きと哀れな最期を送った人々に

は申し訳ないことだった。(以下次号)

1992年ー1993年 騒然のもつ鍋ブームはどうして終わったのか 8

8日目の朝、やっと、厨房に入ることをY社長から許され、築地の店では出

さないナムルを習得するよう命じられた。「料理の基本」としてナムルと雑

炊の作り方を入念に教わり、自分たちが食べられない分は全て廃棄しながら

何回も卵の火の入れ時、ふんわり感を厳命された。「とんちゃんのたれは送

ってやるから、心配するな!」と帰る当日までナムルと雑炊、そして、出し

の引きかたで結局、一週間を費やし、予定を5日過ぎて、帰ることになっ

た。今回の研修はただ、自分たちの人柄を伝えることだけで、会社のために

覚えに来たなど、口が裂けても言えなかった。Y社長は下関の街の顔役でその

男気は計り知れないものがあり、私たちはただ、社長の手のひらで踊ってい

るしかなかった。ブログに書けないY社長の数奇な運命にはいつも、度胸と死

と背中合わせの人生だということだった。また、Y社長が辿ってきた歴史的事

件は各関係各所に迷惑がかかるので紹介できずに残念だが「築地いなせや」

に見えた方には口伝えで話すことができよう。 (以下次号へ)

2009年1月27日 (火)

1992年ー1993年 騒然のもつ鍋ブームはどうして終わったのか 7

下関への研修?のために、羽田から宇部空港まで行き、下関に入る。一緒に

もつ鍋店をやることになった専務の同級性の「T氏」と「H」へ行くと社長

のY氏が強面で出迎えてくれて、いきなり帰れという。「一年間いるのやっ

たら、おれ、十日やそこらでなにも教えることはない、帰れ」と怖い顔だ。

子供の使いじゃあるまいし、帰れと言われて帰れる分けない。まずは、一時

間立ち尽くし、許しを請うまでそうしているしかなかった。それを哀れに思

ったのか社長夫人から助け舟で「なにも、教わらんとも、十日過ぎたら帰れ

ばいいじゃないの」の一言で研修が始まった。朝、十時に「H」に着くとま

ずは、店の掃除から始まり、あとはただ、立って見ているだけ、なにか手伝

おうものなら、罵声が飛んできて、邪魔するな!と怒鳴られる。ランチが終

わると昼ごはん、そのあと、社長のお供で下関ボートへ直行し、自分たちは

喫茶店で時間を潰す。次は、サウナで汗を流して、店に戻り、皿洗いをす

る。ボートの開催がない日はいきなり、サウナで何時間も汗を流す。夜の営

業が終わると店でビール飲み放題の夕食で約2時間、説教が始まり、ただ、

聞くだけで意見はいえない。お説教が済むと社長は夜の街へお出かけでやっ

と、解放されるのが夜の11時、それが、七日間続いた。(以下次号へ)

2009年1月25日 (日)

1992年ー1993年 騒然のもつ鍋ブームはどうして終わったのか 6

築地店は両国よりもアッパーなお客様を想定して、両国店のメニューより価

格やグレードをアップして設定された。両国店と大きく違うことは山口県下

関のもつ鍋、「とんちゃん」を導入することだ。それに伴い、下関での地

獄??の特訓が待っていたのは次回に書くとして、「とんちゃん」をご指導

いただいた「H」の社長Y氏には短い間で商売の「魂」を胸に植え込んで頂い

たことは今でも自分の商売に生かされている。まず、「とんちゃん」がどん

なもつ鍋なのか説明すると、たれは味噌風味だが果実とたまねぎを多く含ん

だフルーティーなコクのあるたれで今でも再現することのできない味だ。

基本は牛もつときゃべつ、たまねぎ、細いもやし、白菜キムチである。シン

ルなだけにそのみそだれに重要なポイントがある。(以下次号)

2009年1月24日 (土)

1992年ー1993年 騒然のもつ鍋ブームはどうして終わったのか 5

夏の暑さを一番、気にしていたどこのもつ鍋店も盛況で特に銀座の「G]はテ

レビ番組に取り上げられ、社長のI氏のカリスマ性に富んだ「秘伝の醤油味

のスープ」は門外不出をうたい文句に東京から離れた都市にもフランチャイ

ズ店が出来た。その時、一番慌てたのが本場、博多のもつ鍋やで東京でのも

つ鍋ブームの後押しを受けて、博多の街ももつ鍋やが軒並み出来ていった。

しかし、もつ鍋の素材は「もつ」、いわゆる内臓であって、1トンの牛から

内臓すべてをひっくるめてももつ鍋に使える部位は40キロしか取れないの

である。その部位を分けていけば、各アソートは知れたもので必然的に品不

足になり、従来の焼き肉店も内蔵を使用している為にもう、奪い合いになっ

た。しかし、力関係はすぐにたくさん買う方に流れ、街の焼き肉店から内臓

がだんだんと消えていったのである。両国の「F」はその当時、ラーメンチ

ェーンはいうに及ばず、辛子明太子の大手、「K]が始めた店であるので将

来性、資本力から国産の牛もつの確保から佐賀牛など、有名どころの産地ま

で抑えることができた。そして、暑い夏も過ぎ、9月18日東京築地に12

0席を誇る両国の「F」の2号店がオープンする。(以下次号へ)

2009年1月23日 (金)

1992年ー1993年 騒然のもつ鍋ブームはどうして終わったのか 4

両国のもつ鍋店「F]はあるテレビ番組で絶頂期を迎える。テレビの内容とい

うのは博多に単身赴任していた中年のおとうさんが東京の家族の元へ帰ると

き、博多で行きつけのもつ鍋やの「もつと材料」を持ちかえって、久しぶり

に会う家族にごちそうするドキュメンタリーで博多のもつ鍋やのおばさんの

人情味あふれる「おせっかい」が泣かせる場面になっていた。その頃、おい

しいもつ鍋を提供していた店には行列が出来、銀座の「G]はフランチャイズ

を始めて、急速に店舗数を拡大していった。それに伴い、類似店が渋谷のセ

ンター街を中心に一時はもつ鍋通りといわれるほど連立していった。類似店

の中には湯がいた豚もつにめんつゆを薄めて出汁とし、安い中国産のにんに

く入れた「粗悪品」を出す店も当たり前のように出来ていた。それでも、素

材にこだわった銀座の「G]の人気は加速度を増すばかりで「もつ鍋」の王道

をばく進していく。マスコミも低カロリーを全面にファッション雑誌までが

特集を組むまでにもつ鍋はブームを続けていった。そして、鍋料理としては

驚きの八月に両国の「F]は最高売上を記録するのである。(以下次号へ)

2009年1月22日 (木)

1992年ー1993年 騒然のもつ鍋ブームはどうして終わったのか 3

もつ鍋を最初に始めた両国店は席数40席の和風の佇まいで、東京にもつ鍋

ブームを起こした銀座の「G」がジャズを流し、労働者と専売特許とも言える

博多のもつ鍋を女性をターゲットにしてよりモダンにし男性客をも呼んで大

ブームを作った。その「G]の洋風の器と間接照明の今でいうクラブ風に対抗

し、両国の一号店では白木と青竹をあしらったインテリアで落ち着く空間を

演出した。、ユニフォームも和風の作務衣。経営責任者である専務が元々、

和食の板前をしていたこともあり、自分で開くなら博多・中州にあった繁盛

店と同じように空間を広めに取りたいと切望。お客様の回転よりもくつろぎ

に最終目標を置いたのがゆくゆく、大変な重荷となっていく。専門店を意識

してのアイテムの絞り込みは三回来たら飽きてしまうメニューでもつ鍋2品

のほか、一品料理は5品のみのお粗末なメニューでもブームとはおそろしい

もので連日満員で行列が出来て、コース料理など考える余裕もなかったし、

当面、このブームは続くはずと疑わなかった。(以下次号)

築地 いなせや のサービス一覧

シェフ紹介:
シェフレシピ:
BEST OF MENU
築地 いなせや